「阿Qゲノム」序文           桜井大造

機械としての身体、集いとしての劇場
    −〈革命)に演劇は何をもたらしたか?

                   
 池田浩士

「蟻にたかられて唖蝉がおり」      濱村篤

“花に嵐にたとえもあるさ”       池内文平

2002年10月 「阿Qゲノム」公演に合わせて発行された、通信「ディ・プレッセ」の全文

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「阿Qゲノム」序文              −桜井大造

 現代科学のイデオロギーは、この不平等社会を維持、固定化するために「ゲノム」という神話を産出した。
 遺伝子が個人を決定し、個人が社会を決定するという生物学的決定論のイデオロギーは、「ゲノムという神話」をすべての「物語」の上に秘密めかして上書きする。秘密めかすのが、肝要なようだ。市民社会の表面に炙り出しのように現れてきた暗号を、科学者=<知(血)の体系?>が読解することで、初めて「神話」は共有するべき「神話」として成立するからだ。
 このような「神話」が普及するのは、それが市民主義的な存在的不安を解消させるのに役立つからだろう。「人間はどこからきたのか?」「生き物とは何か?」「人間と社会とはどんな関係にあるのか?」「どうして人間社会は不平等か?」――市民社会の内部に、多少の社会的異議があろうとも、「多少の社会的異議」の残り大部分が、生物学的決定という変更不可能な因果関係に還元できるとすれば、とても楽だからだ。
 しかし、不安解消の対価として手に入るのは、存在に対する諦念と冷笑だけだ。諦念は、存在に対しできる限り社会的摩擦を避けるように命じるし、冷笑は存在をどこまでも切り縮めるように指示する。こうして、どこまでもやせ細った<個>は、「1」と名づけられた独房に自ら収容されようとするだろう。その独房の中では、冷笑や諦念こそが<他者>からの収奪や殺戮を再生産するのだ、ということが忘却できるのだ。
 もちろん、「ゲノムという神話」は<科学的>にも少なからず崩されている。当初からその欠落を隠し、したがってどこかしら胡散臭さをともなっていたのだった。だが、すでに社会システムがこの「神話」を、<外部>に対する搾取・排除・必滅の合理化として利用し、<独房の個>に対しては脅迫と恭順として採用しているのが現実である。たとえば、「人口爆発」や「イノチ」をベースにしてアグリビジネスや医療産業が領有している「神話」には、恭順した<個>たちの絶大な延命幻想が動員されているし、社会の全ての領域における<優位性>という「神話」と溶け合って、この社会の階層性に太鼓判を押し続けている。 

 では、この芝居のタイトルの「阿Qゲノム」とは何か。「阿Q」と「ゲノム」という単語の接合は何を意味するのか。「阿Q(の)ゲノム」か? 「阿Q(と)ゲノム」か?「阿Q(VS)ゲノム」か? 「阿Qゲノム」というタイトルでは、「阿Q」と「ゲノム」という単語が何らかの接続関係を持つのか、あるいは無関係にただ転がっているだけなのか、そこがわからない。
 当初、この芝居のタイトルは「阿Q連続体仮説・フェイクゲノム」であった。とりあえず「阿Q」と名づける<表現されえない無限の実数的民衆存在>と、個体の中に眠ったり休んだりしているとされる<ニセ遺伝子の無限大的な連鎖可能性>に筆者がめくるめき圧倒されたところに由来している。それを「阿Qゲノム」につづめたのだった。
 ある友人の指摘通り、この段階で、筆者は「ゲノムという神話」の内辺をさまよっていただろう。「ゲノム」にまつわる科学的言説の不気味さを感じながらも、おそらくそれをこちら側の物語の中に面白おかしく反転・回収できると漠然と考えていたのだった。だが、ゲノムは言説の不気味さではない。人にまつわる実体としてのそれであった。
 最初の段階で、そのことが十分捉えられていなかったことは確かである。当然ながら、芝居に反転・回収しようとしたゲノムをめぐる物語など、そのまま「ゲノムの神話」に回収されていったに違いない。
 「阿Q」については、この芝居が「民衆」という不可知な存在にかかわる物語を求める上で、当初から<外部的存在>の記号として考えていた。そして「ゲノム」とは、今にいたってだが、<内部存在の物語>に上書きされる<神話>であると考えられている。
 この芝居は私(ら)の「存在」を問うものである。内部存在的には<ゲノム状況>とでもいうべき領域に私(ら)はあること、そこから「存在のどこかしらか」を「阿Q」という<外部>に越境・放逸させようとすること、これがこの芝居の行き方である。だから、その動線を可能にする方法論が必要とされる。<これは芝居だから>といった類の共通了解性に留まるかぎりは、<芝居という神話>を自身の内部的存在の物語に上書きするだけだからだ。
 だが、それはたやすいことではいかない。その方法そのものがこれから6ヶ月の私(ら)の道程の中で試行錯誤されるだろう、としか言えない。ならば、タイトルは「脱ゲノム阿Q」とでもすべきであったろうか。でもやはりこれもおかしい。私(ら)は、外部に一方的に放逸できるわけではない。内部に居ると見せておいて外部に、外部に放逸したと見せて内部に帰還していなくてはならない。もちろん帰順や自爆という方法を使わずに。
 いずれにしろ、この芝居を書くにあたっては、先述した筆者の不足と友人からの忠告が、起点を再考させてくれた。

「阿Q」については、もう少しだけ書いておきたい。すでに「覚書」やチラシの文章においてふれてきたが、物言いは常に不十分で、その性格上、言説にはいたらない。重複を避け得ずして言えば、この芝居において私(ら)は阿Qを追跡しようとしているわけではないだろう。あるいは、阿Qをジョーカーとして使おうとしているのでもない。
 私(ら)が、芝居という場に「存在」しようとすれば、<独房の個>にいるわけにはいかない。芝居はチャットルームではないからだ。そしてこれがまた、たやすいことではいかない。「1」を破壊することは自らの抱える世界をも同時に破壊することだからだ。大げさでも何でもない。世界の方は微動だにしないだろうが、「1」を脱したものにとって、世界はすでに壊れているのである。
「0から2」を流浪する阿Qにとっては、すでにそれ以上に世界は不明である。阿Qは世界の対象の外におり、時に死者数とか人口とかいう統計学に算入されるだけだ。だから、阿Qにとって世界なんてものは、もともと、爆撃された跡のビルのようなものだ。ただの破片なのだ。
 私(ら)は、おずおずと「0から2」の間を移動するだろう。そして、おそらく阿Qとすれ違う。あるいは、ピタッと重なり合って、その瞬時に起こる<出来事>を共有するかもしれない。
 否、逆である。この芝居は、その重なり合う時間のために設定され、<出来事>を起こすために書かれるのだから。そしてこれがまた、たやすいことではいかないのだ。
(野戦の月&海筆子)

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   機械としての身体、集いとしての劇場 −〈革命〉に演劇は何をもたらしたか?
                                     池田浩士

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 1923年1月31日、のちに演出家・舞台装置家として前衛的な演劇運動の歴史に大きな足跡を残すことになる村山知義が、ドイツから東京の自宅に帰った。関東大震災に先立つこと7ヵ月である。横浜を出航して日本を離れたのは、1年前の1922年1月4日だった。しかし船旅とベルリンまでの列車の旅に片道ちょうど1ヵ月半ずつを要したので、かれのドイツ滞在は正味わずか9ヵ月にすぎなかったわけだ。けれども、このわずかな期間が、村山知義というひとりの表現者にとってばかりでなく、日本の前衛的な表現運動の歴史にとっても、決定的な意味を持つことになったのである。それは、1922年のベルリンが体現していた危機のゆえであり、その危機を21歳の村山知義がほとんど無意識のうちに、しかしきわめて敏感に自己の感性に深く刻みつけて帰ったからにほかならない。
 ベルリンが体現していた危機とは、もちろんひとつには、目に見える直接的・政治的な危機である。1918年11月9日の敗戦と帝国崩壊ののち、ドイツでは、旧体制護持派および反保守派の右翼愛国主義・民族主義諸潮流と、ヴァイマル議会制民主主義派、それに共産党およびアナルコ・サンジカリズムのいわゆる左翼過激派が、三つ巴となって政治的・社会的ヘゲモニーを争っていた。この状況は、1922年に至ってもなお続いていた。未曾有のインフレと失業、生活物資の不足など、経済的な困窮がそれに輪をかけていた。けれども、村山知義が身をもって体験した危機は、それだけではなかった。危機は、文化の領域でも先鋭化していたのである。
 20世紀初頭から第1次世界大戦前後にかけての時期に、さまざまな芸術分野で世界的同時性をもって新しい表現、前衛的な表現が生まれたことは、よく知られている。イタリアの未来派、それに触発されたロシアの未来派と、フォルマリズム、構成主義など、「ロシア・アヴァンギャルド」の名で総称される多様な試み、ドイツの表現主義、ダダイズム、そしてフランスを中心とするキュビスム(立体派)、さらにはシュールレアリスム、等々がそれである。これらに共通する基本的な特質をきわめて簡略に言い表わすとすれば、写実的な描写をむねとして現実を再現しようとした18、19世紀の芸術にたいして、20世紀のアヴァンギャルドは、抽象やモンタージュを基本原理とする表現によって現実に立ち向かおうとしたのだった。それらは、たまたまロシア、ハンガリー、ドイツなどの政治革命の同時代人だったのではなく、これらの革命が目指したものを、文化表現の領域で実現しようとしていたのだった。一部の特権階級だけが政治と社会との主人公である社会を打倒して、民衆自身が政治と社会の主体となることを、政治・社会革命が目指したとすれば、文化表現のアヴァンギャルドたちは、民衆が文化表現の単なる受け手にとどまるのでなく、民衆自身が表現の主体となるための道を開くような表現を、模索しようとしたのである。だからこそまた、少なからぬ文化表現者たちが、政治的・社会的な革命との共闘を実践しようとした。そして他方、政治革命の側も、文化の革命をもはや等閑視することはできず、革命的な文化運動を自己の課題として実践せざるをえなかったのだ。
 帝政を打倒し帝国を敗戦に追い込んだドイツの革命は、ロシアのボリシェヴィキ革命とともに、文化革命の試みが政治革命と並行してなされようとした点を大きな特色としている。表現主義者やダダイストたちの多くが、各地に結成されたさまざまな評議会(レーテ、すなわちソヴィエト)に参加して革命の一翼を担おうとした。しかもかれらは、ただ単にそれによって政治や社会の構造を変えようとしたばかりでなく、もっぱら商品としてしか生きない作品を生産する従来の自己の営みに終止符を打ち、この営みの基盤である従来の芸術価値の基準を根本からくつがえし、表現の送り手である自分ともっぱら受け手でしかない読者・観客との一方通行的な関係そのものを変革することを、試みようとしたのだった。ロシア革命と、ロシアの革命に触発されたヨーロッパ各地の変革運動のなかでなされた同時的なこの文化革命、芸術と文化のほとんどあらゆる領域にわたるこの前衛的な試みが、ほぼ出そろったのが、1922年であり、しかも、ロシアでの革命が転換期を迎え、東欧での革命が失敗に帰した結果として、それらの地域で活動してきた表現者たちがひとつの活動拠点をそこに見出していたのが、1922年のベルリンだったのである。それゆえ、大戦をはさんだほぼ10年間の前衛的文化表現の到達点と、それにもまして問題点が、1922年のベルリンには集中的に渦巻いていたのだった。村山知義は、その1922年のベルリンで生き、そうした到達点と問題点を、ほとんどすべてといっていいほど濃密に吸収して帰ったのである。

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 20世紀の前衛的な文化表現を見るとき、それらが生まれ、生まれた現場で活動していた時期にもまして、それらがたどった後史に注目することを、避けるわけにいかない。
 このことは、もちろん、政治・社会革命と文化革命とが不可分のものとして試みられたロシア、ドイツ(および旧オーストリア・ハンガリー帝国)、イタリアという3つの地域で、やがてスターリニズムとファシズム、ナチズムが現実を制覇することになるという事実と、関連している。社会主義・共産主義による革命のなかで表現そのものを変革しようとしたアヴァンギャルドたちは、政治との新たな関係を強いられざるをえなかった。だが、この新たな関係が、1910年代後半から20年代初頭の革命のなかでなされた試みと成果を放棄し変歪することだけだったとすれば、問題はまだ単純だっただろう。すでに1922年10月に政権を掌握していたイタリアのファシズムが、もっともラディカルな未来派の表現者たちと緊密な共闘関係にあったことは、周知の事実である。しかも、これはイタリアだけのことではなかったのだ。文化表現の前衛たちがスターリニズムやナチズム、ファシズムとの関係のなかで転向を強いられねばならなかったというのは、じつは一面の事実にすぎない。大粛清と強制収容所と国外亡命は、この一面を如実に物語っている。しかし、おそらく量的にはこれらの「犠牲者」をはるかに上回る表現者たちが、こうした支配体制の構築と維持に貢献したのだった。しかも、みずからが切り開いた前衛的な表現によって、それをしたのだった。スターリン体制による粛清の歴然たる一例としてしばしば言及されるソ連の前衛的演劇活動家、F.M.メイエルホリドの場合でさえも、そうだったのである。
 演劇におけるアヴァンギャルドの試みが論じられるとき、メイエルホリドが取り上げられることが多いのは、理由のないことではない。メイエルホリドは、20世紀の前衛芸術が初めて手にすることができた表現上の可能性を極限まで駆使した新しい表現を、ひたすら試みた芸術家のひとりだった。しかもかれは、これらの新しい可能性を、人間にとって外的な機械技術的な要因として利用しただけでなく、いわば人間のなかに内在化された生きた身体的可能性として、舞台で実現しようとしたのだった。
 演劇にとどまらず、20世紀の前衛的な文化諸表現が切り開いた新しい地平、あるいはむしろ新しい地平を切り開くための新しい課題設定は、きわめて簡略化して言うなら、つぎのように要約されるだろう――
 .新しい機械的・技術的可能性を駆使して表現の可能性を拡大・深化すること。
    舞台への映画の取り入れ、音響効果・照明、電力を使った舞台装置、等々。もちろんこれは、放送、映画、写真、印刷技術などに関しては自明のことである。
 .身体の重視、身体的可能性の追求。
    これは上記と相反するように見えるが、たとえばイタリア未来派のマリネッティが提唱した「触覚主義」や、同じくかれの「驚異の劇場」の構想には、いわゆる精神や内面を重視した旧芸術に抗して、表現の基底としても受容者の側の能力としても人間の身体的可能性に着目する基本姿勢が表われている。ベーラ・バラージの映画論『視覚的人間』にも、この姿勢は顕著である。
 .受け手の参加。
    表現の送り手と受け手のあいだの一方通行的な関係を解体し、能動的・主体的な観衆・読者を触発することは、社会・政治革命との共闘を志向した前衛的表現者たちの基本的モティーフだった。幕や舞台と客席との区分のない劇場、観客を巻き込んでいく芝居、ブレヒトによって定式化された「異化効果」(それはロシア・アヴァンギャルドのV.シクロフスキーの着想だった)、等々。これは、革命を志向する前衛表現にかぎらず、いっけん非政治的な大衆文化の領域においても、20世紀の最大のモティーフのひとつである。たとえば、読者の主体的参加を不可欠の要因とする探偵小説など。
 「ビオメハニカ」、すなわちバイオ・メカニズムの理論として知られるメイエルホリドの演劇構想は、これら3つの基本理念を実現するもっとも先端的な試みのひとつだった。「工場とか比較的大きな機械室とかのなかで演技をしたいと思っており、それゆえ舞台装置のなかで、まさしく鉄骨構造の工場の内部を模倣する試みをおこなっている」と自分たちの舞台の構想を語ったメイエルホリドは、「自動車や路面電車や飛行機が、観客席のなかで発着しなければならない」とも述べた。劇場は、工場や機械室によって代表される先端技術の同時代人でなければならないのだ。そして、そうした先端技術によって生活を急速に変えつつある民衆の感性と、劇場は切り結ばねばならないのだ。1920年代のメイエルホリドの舞台を実見した日本のロシア文学者、米川正夫は、その舞台が、機械化されつつある現代ロシアの農村を描くために、新式農具や自動車を登場させ、メリーゴーラウンドや空中ブランコなどの機械仕掛けを駆使し、映画(キネマ)が発揮する効果を意図的に応用していたことを証言している(「私のメイエルホリド観」、1928年5月刊『メイエルホリド研究』所収)。けれども、機械化は、舞台装置や作品のテーマのなかだけにあったのではなかった。演技する俳優もまた、機械化を体現していたのだった。すでに1910年代の中頃からかれが劇場のひとつのあるべき形として実践していた「見世物小屋(バラガン)」の構想そのものが、サーカスや軽業などがそうであるように、人間の身体の機能を極限まで追求し発揮することによってのみ、実現されうるものだったのである。このことについて、メイエルホリドはこうこう述べている、俳優は、ちょうど映画の場合とまったく同じように、迅速で集中度の高い演技をしなければならない。だから、われわれはまず第一に身体の鍛錬、スポーツ、ボクシング、ローン・テニス、ダンス、アクロバットをやっている。わたし自身、わたしがビオメハニカと名づけ、体操による健康法に基礎をおくひとつのシステムをつくりあげた。」
 ビオメハニカとは、人間の身体を合理的に機能させてその能力を最大限に発揮させることを演劇表現の根底に据え、それを実現するためにメイエルホリドが創出したシステムである。熟練工と呼ばれる労働者や、サーカスやアクロバットの芸人たちの身体の動きを綿密に観察、測定し、もっとも効率的な所作を俳優に修得させようとするものとして、ビオメハニカは一般には知られている。だが、サーカスやアクロバットがただちにイメージさせるとおり、ビオメハニカはただ単に人間の身体を機械の性能に近づけることだけを目的とし理念とするものではなかった。「見世物小屋」のヴィジョンが物語っているように、近代演劇がその特権性・差別性の代価として失ってきた身体の意味を、ビオメハニカは、芸術とは見なされない民衆芸能、いずれの社会においても主として被差別者たちによって担われてきた「下賤」な劇場空間のなかに再発見し、革命の文化にふさわしい新たな前衛的表現の可能性を、新しい機械の動きに匹敵するような身体の機能の開発に見出そうとしたのである。しかも、その開発は、個々の俳優の可能性とのみ関わるものではなかった。「われわれは劇場の建物から外へ出て行こうと思っている」と、1920年代の末にメイエルホリドは語っている。「かんじんなことは、俳優たちが専門家として一面的に養成された役者ではなく、労働時間が終わったのちに芝居を演じる労働者でなければならない、ということだ。」――そしてさらにこう述べている、「われわれがひとえに欲していることは、観衆が無気力に静かに坐っている古い劇場から脱却することだ。観衆もともに動くようにならなければならない。観衆が絶えず動きつづけ、たとえばゴンドラのようなものを使って一階の平土間から一番上の天井桟敷まで運ばれるような、そういう未来の劇場を、われわれの新しい建築家はすでに設計している。生活と演劇とが、たがいに混ざりあわねばならない。」
 資本主義の工場やオフィスで機械と化した人間は、こうして、身体の機能を真に解き放つことによって人間の身体を奪回する。だが、そればかりではない。ビオメハニカとは、この語がちょくせつ意味するような個々の人間の身体のメカニズムだけに関わる理念ではなかったのである。それは、観衆を静止した鑑賞者のままにしておくのではなく、動く共演者にしようとする。そしてその反面で、俳優は専門家ではなく、労働が終わったあとで芝居を演じる労働者なのである。表現の一方通行性は、こうして止揚されようとする。そして何よりも、これによって、演劇は特権的なひとつの「芸術」ではなく、生活の一部となるのである。

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 村山知義は、1930年5月に刊行された著書、『日本プロレタリア演劇論』のなかで、最近のソ連の演劇がおちいっているとされる形式主義(フォルマリズム)について触れ、メイエルホリドもまたこれに「多くわざわいされた」が、「しかもその範囲に於ても彼の成就したことは演劇芸術の表現手段についての本質的な試みであり、そのためにその内容についての比較的な不注意や動揺にも拘らず彼の仕事は高く評価されている」と書いた。ソ連における形式主義批判という名の前衛的表現にたいする批判はすでに始まっていたが、これが大粛清の一部として全面的に展開され、メイエルホリド自身が1939年7月に逮捕されることになろうとは、もちろん村山知義が予測しうるはずもなかった。それどころか、1930年の自著にソ連での形式主義批判について書くことになるなどと、ベルリンで同時代のアヴァンギャルドの息吹きにふれていた1922年の村山知義は、想像できただろうか。その1922年の4月、メイエルホリドは『堂々たるコキュ』で初めてビオメハニカを本格的に実践して、大きな議論を呼んでいた。その議論は、まだ、かれの生命を脅かすものではなかったのである。
 だが、村山知義が呼吸していた1922年のベルリンの空気は、じつは、生命を脅かすものの予兆をすでに孕みはじめていたのである。その地を訪れていたイタリアの未来派たちや、ショルシュ・グロスをはじめとするベルリン・ダダのメンバーたち(かれらの多くは共産党員だった)、そしてもちろん少なからぬ表現主義者たちとじかに知り合った村山知義が、ドイツを去って日本に帰着したのとほとんど時を同じくして、決定的な転機がドイツを襲った。
 1923年1月11日、ヴェルサイユ条約にもとづく賠償の履行をドイツが怠っているという口実のもとに、フランスとベルギーは、ドイツ最大の石炭産出地であり大工業地帯であるルール地方を、軍隊によって占領した。ヴァイマル共和派の政府が無策のままに事実上これを座視するなかで、3月中旬、ルールの石炭をフランスが自国に運ぶ鉄道線路が爆破された。右翼民族派の青年グループが逮捕され、フランス軍事法廷は、主犯と目されたレーオ・シュラーゲターという28歳の青年に死刑を言い渡した。国際的な非難と助命キャンペーンにもかかわらず、フランスはこの青年を銃殺刑に処した。刑は5月26日に執行された。――これが、転機となった。シュラーゲターは国民的英雄となり、ナショナリズムが、インターナショナリズムを最終的に圧倒した。なおも燃えつづけていた共産主義革命の残り火はここに絶えた。シュラーゲター事件から利得を引き出した右翼ナショナリズム諸派のうちでも、最大限にこの事件を利用しつくしたのは、国民社会主義ドイツ労働者党、つまりナチ党だった。ナチは、いちはやく、シュラーゲターがナチ党員だったと発表した。事実は、同盟関係にあった別の群小政党のメンバーだったにすぎなかったが、この最大の国民的英雄の慰霊・追悼キャンペーンにおいて主導的役割を演じることで、ナチ党は右翼民族派のなかでの地歩を着実に固めていくことになる。そしてそもそも、同年11月9日、敗戦5周年を期して――というよりも、ボリシェヴィキとユダヤ人による革命のゆえに帝国が崩壊したあの「11月の裏切り」と、その結果としてのヴェルサイユ体制に終止符を打つために――ナチ党がミュンヒェンでクーデターを起こしたのは、シュラーゲターの事件によって歴史の流れが変わったことを、ヒトラーたちが見て取ったからかもしれないのである。
 それから10年たらずののち、1933年1月30日についに政権の座に就いたヒトラーは、その年の4月20日、44歳の誕生日を迎えた。それを祝して、ひとつの演劇作品がこの日に初演された。ハンス・ヨースト作の『シュラーゲター』がそれである。
 そのとき満42歳だったヨーストは、早くからのナチ党員で、ナチ政権下の「第三帝国」では文化行政の中核的役割を担い、とりわけ演劇分野における最高責任者の地位に就くことになる。戯曲『シュラーゲター』は、まさに、テーマの点でも作者の点でも、総統の誕生日に捧げられるにふさわしい作品だった。注目すべき点は、しかし、それだけではなかったのである。この作品が、とりわけその幕切れで示したものこそは、20世紀の前衛的表現が追求しつづけたモティーフにほかならなかったのだ。――観客席の正面に並んだ処刑隊の銃弾は、客席に背を向けたシュラーゲターを貫いて、そのまま観客たちを撃ったのである。処刑されたのは観衆なのだ。観衆は見物客ではなく、当事者であり、ドイツの運命に責任を負う主体なのだ。
 メイエルホリドが、そしてかれの共闘者であったエイゼンシュテインやトレチャコフが、早くから追求していた表現理念が、ここには息づいている。ハンス・ヨーストは、この原理をドイツにおいて追求した表現主義者たちの一員として出発した劇作家だったのである。しかも、ヨーストがナチズムの陣営で実践したこの表現理念は、1933年のドイツにおいて、孤立した単独者ではなかったのだ。
 それどころかむしろ、20世紀の先鋭的な表現に通底する課題は、ナチズムの運動のなかでひとつの実現を見たのである。新しい機械技術を駆使し、人間の身体を重視し、表現するものと鑑賞し受容するものとの一方交通的な関係を解体して民衆自身が表現の主体となる――これを実現したのは、ナチズムであり、部分的には、民衆の唱和と主体性によって大粛清を遂行したスターリズムのソ連だった。
 まだその全貌が究明されていないひとつの演劇形式、「ティングシュピール」と呼ばれる形式は、ナチズムが実現した理念を端的に物語っている。それは、野外で演じられる群衆演劇である。だが、「ティングシュピールと野外劇とは、二つの別のものである」と、1934年6月20日号のナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオーバハター』(民族の監視兵)に発表された「ティングシュピール・テーゼ」は述べている。「空の下で演じられるロマンティックな騎士物語〔時代劇と読め!――引用者〕は、あくまでも演劇であって、ティングシュピールになることはない。」――ティングシュピールは、20世紀の表現に独自の課題を実践した劇的形式、演劇を超える形式だったのだ。
 演技(シュピール)は、シュプレヒコールと分列行進を基軸にして展開される。分列行進の諸グループは、旗や標識によって、たとえば共産主義者、資本家、保守派、ユダヤ人、そして国民社会主義者、等々であることを示す。そして、それぞれのグループがシュプレヒコールの応酬によって各自の主張を戦わせ、次第に舞台は熱気を帯びていく。舞台、それは、当初においては街頭であり、広場であり、工場の中庭である。群衆がそれをぐるりと取り巻いて見物する。演技者たちは、これまた当初においてはSA(ナチ党の突撃隊)隊員であり、党員たちである。その場が白熱の度を加えると、観衆のなかからシュプレヒコールに加わるものが出始め、やがて飛び入りで分列行進に加わるものが出てくる。こうして、初めは数十人だった演技者は、数百人にふくれあがる。
 ナチ政権第1年の1933年の年末までに、全国に400の「ティングプラッツ」、すなわち「ティングの広場」を建設することが政府の方針として決定された。「ティングプラッツ」はまた「ティングシュテッテ」、つまり「ティングの場」とも称された。建設予定地に指定されたのは、いずれも、古代ゲルマンの共同体の遺蹟とされる場所だった。森や小山の頂きなどで、伝えられるところでは、そこで部族共同体の会議が開かれたのだった。ティング=Thingとは、現代の英語にある語義のとおり(ドイツ語のDingにあたる)、「こと」を意味する。日本語で「一朝事あらば」とか「それは大事(おおごと)だ」というときの「こと」である。つまり、部族にとって大事なことを討議し決定するための集い、ときによっては裁きのための集いがティングであり、それを議する場がティングプラッツもしくはティングシュテッテなのである。人口15万人にひとつのティングの場を造るという当初の計画は、1934年中にまず25ヵ所が着工するというかたちで実行に移された。それらはいずれも、中央にある演技スペースをぐるりと観客席が囲む形態をとっており、もちろん演技者と観衆とを隔離する幕や大きな段差はなかった。記録によれば、これらのティングの場での上演は、多いときには2000人を越える演技者とそれの10倍に達する観衆によって行なわれたのである。ほとんどがドイツの近過去の歴史、ナチズムの「闘争時代」に題材をとったティングシュピールに参加することで、民衆は、ナチズム運動を自分自身の実践的課題として血肉化し、この運動とともに歩むことで主体的に自己の歩むべき道を決定したのだった。
 「ティングシュピール・テーゼ」は、つぎのように述べている――

3.「ティング劇場」という言葉はない。ティングシュピールは劇場芸術から脱却して、裁きの日が催されることになるであろう場へと導いていく。劇場芸術作品から脱却して裁きの場へと、その演技は導いていく。それが重要なことになりつつある、いま。
7.演技を担うのは民衆であって、十人ばかりの有名人やだれもが知っているスターたちではない。どんな名前も無名になるべきだ! 栄誉に輝くのはひとり民衆だけであるべきだ!

 「ティングシュピール・テーゼ」の執筆者であるリヒャルト・オイリンガーも、かれと並んでもっともよく知られたティングシュピールの台本作者であるクルト・ハイニッケも、じつは表現主義者として出発した作家だった。かれらは、かつて世界的な同時性において自分たちが向き合ったテーマを、「第三帝国」のなかで最終的に実現したのである。民衆は、まさに、「労働時間が終わったのちに芝居を演じる労働者」となったのだ。そして、「われわれは劇場の建物から外へ出て行こうと思っている」というメイエルホリドの劇場理念は、実現されたのだ。それどころか、観衆は演技者になったばかりでなく、公募された台本の作者にもなった。一度の募集に数千篇のティングシュピール台本が応募した。まさしく、「生活と演劇が、たがいに混ざりあう」現実がやってきたのである。
 転機は、しかし、早くも1934年のうちに訪れた。まず「ティングシュピール」という名称が認可制となり、ティングの場の建設が中止された。民衆の集いの場が、ナチズムにとっての裁きの場にならない保証は、なかったのである。1936年のベルリン・オリンピックのための施設の一環として建設された「ディートリヒ・エッカルト舞台」が、最後のティング・プラッツだった。
 けれども、では、ナチ権力によって禁圧されたことをもって、ティングシュピールを肯定し称揚することがはたしてできるのか?ーそしてそもそも、文化表現の特権性と商品性を解体することを目指し、もっぱら消費者としてのみ文化と関わってきた民衆が表現の主体として生きるような現実を切り開こうとした前衛表現者たちの、初期における苦闘と、後史におけるファシズムやスターリニズムとの関係を、かれらの表現実践そのものに即して、どのように考えるべきなのか?
 決定的に新しい表現を模索したアヴァンギャルドたちがファシズムやスターリニズムに併合されていった後史を、「転向」という概念でとらえることには、問題が多い。日本におけるプロレタリア文化運動を、政治的・イデオロギー的な前衛としてばかりでなく文化表現の前衛として担った村山知義は、1934年4月、日本で最初の自覚的な転向文学作品とされる中編小説「白夜」を発表して、天皇制ファシズムへの屈伏を公表した。大東亜戦争下の時期のかれは、俳優・千田是也の兄の伊藤熹朔らとともに、「移動舞台」の運動にたずさわり、ここでも民衆の主体性を触発する作劇法を民衆のただなかで追求しつづけたのである。
 だが、その民衆とは、だれだったのだろうか?
 ティングの広場の集いで主体的な表現者となった民衆は、あの機械技術を駆使した演出に陶酔しながらナチ党大会に参加した主体的な民衆だったのである。ナチズムが理想とした主体性は、それだったのである。そして、じつは、メイエルホリドが主体的な表現者として期待した民衆、当初かれがサーカスやアクロバットの芸人たちのなかに見出した表現者としての民衆は、ボリシェヴィキ革命の一端を担いながらかれがビオメハニカを実践に移したときにはすでに、革命の主体として認知された民衆、官許のあるべき人間としての労働者や農民だった。戦後に連作『忍びの者』で忍者ものブームの先駆者となる村山知義でさえ、プロレタリア演劇運動時代に、そしてもちろん「移動舞台」の時代にも、はたして同時期のメイエルホリドが見たものとは別の民衆を見ていただろうか。革命のなかでさえ人間として振り返られることのない人間、「国民社会主義」であるナチズムにとっての非国民、天皇の赤子(せきし)ではない社会構成員、その他すべての埒外に置かれた人間たちは、けっしてティングの場の集いに登場することはなかった。この人間たちは、理想化された工場労働者たちが身体をますます機械に近づけていく訓練をビオメハニカに即して自己に課しているとき、もっぱら機械として、機械以下の機械として、それゆえにまた本質的には機械を批判し解体する可能性を内包しながら、しかしその可能性を主体的な表現によって実現する手がかりさえ持たぬまま、生命をすり減らしていたのである。20世紀の前衛表現は、ついにかれらと出逢うことがなかったのである。
 そしてそのことが、表現の前衛たちがスターリニズムやナチズムに主体的な表現の場を見出すことになった最大の根拠なのだ。
     (2002年10)                       (京都大学教員)

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   「蟻にたかられて唖蝉がおり」                濱村篤

 水平飛行する旅客機がWTC(ワールド・トレード・センター)に激突する映像や、一挙に崩落するWTCの映像が、あたかも神経症患者の心中に去来するトラウマのように、繰り返し流されるとき、あるいは、インド洋上の航空母艦から夜毎戦闘機が発進する映像や、荒涼としたアフガニスタンの山岳地帯にB52戦略爆撃機が雨霰と爆弾を落としている映像を、毎日のようにテレビで見ているとき、映像の持つ規定力の強さに改めて考えが及んでしまった。映像とは、周知のように、時間に鋏を入れて、切り取った部分を再度リアルに再生することができる。しかし、こうして再生されたリアルな映像は、所定の枠組みの中では、すなわち、圧倒的な事実として容認されるような環境の中では、たとえ批判的な意図をもってしても、本来批判の対象となるはずであったこの圧倒的な事実をかえって裏付ける結果に終わるのではないか − こういった杞憂ではない、気鬱というか、憂鬱が、2001年9月11日以降にはことさらあった。
 映像が、時間に鋏を入れて、これを再生したり、これを編集したりすることができるのと比べると、優劣の問題としてでなく、ただ単なる比較の問題として、「芝居」は、どうやら、現実に対してさらにプリミティブな形の接地点を持っているようだ。現実に対するこのプリミティブな接地は、役者個人が舞台の上に立ち、観客と対面することで得られる現実感覚にのみよるものではないように思われる。自分がかつて参加していた劇団では、「芝居」が始まる直前には、観客と舞台とを隔てて、「風幕」と呼ばれる一枚の大きな幕が掛けられていた。このぺらぺらの一枚の風幕には、「芝居」が始まる直前には、ダムにおける水位の落差のように既に大きなポテンシャルとしてのエネルギーがはらまれていた。この薄い一枚のぺらぺらの風幕がはたき落とされると、落差となっていたエネルギーが一挙に放出され、「芝居」が始まるのであるが、これと同時に現実のものとは違うある種の「時間」が流れ始める。「時間が走り始めた」と − かつて「芝居」の舞台の上に立っていた頃そのように感じられた。一度走り始めた時間は、自分が舞台の上に立っていようが立っていまいが、そんなこととはお構いなしに、「芝居」が終結するまで走り続ける。この時間はもちろん、役者が、(そして観客もまた)厚みを加えてゆくわけだから、自分が中途に舞台に出たときには、それまでに加えられてきた時間の厚みに押し出されることになる。あるいは、逆に、そうやってせっかく厚みが加えられてきた時間も、思い入れたっぷりのひとりよがりの冗漫な台詞回しや、ちょっとした不注意で水泡に帰してしまうという失態を、これまでに何度も見てきているし、自分もやらかしてきた。だから、いったん「時間が走り始める」と、そのとき自分が何をしているに関わらず、この走り始めた時間に研ぎ澄ませた全神経と全感覚を集中させなくてはならなかった。舞台の上に立つことのない今ではあるが、現実に接地点を持ちながら、現実そのもののものではない、「芝居」が始まると「芝居」が終わるまで走り続けるあの時間が持つ妙にリアルな感触というものが体の中に記憶として今でも残っている。
 今書いた「芝居」が固有に持つリアルに感じられる時間というのは、冒頭に書いたような眼前に生じる圧倒的な事実を圧倒的な事実として容認する以外術の無い所定の枠組みから外れているところ、リアルな眼前の現実に接地しているのに、時に荒唐無稽に見えることもあるフィクショナルな部分に根ざしているものだと思う。それと同時に舞台に対する考え方は様々であるが、舞台は時にきちんと抽象化されるべきであろう。たとえば、舞台で「海」を呼称するのに、舞台に途轍もなくでかいプールを造り、そこに大量の水を注ぎ込むことが時にこけおどしに過ぎないこともあるだろう。かつて、自分も参加していた「芝居」の中で、トンネルを潜り抜けるとたどり着けるだろう海の話がさまざまに展開された後で、最後に、ひとりの役者が誰にともなく「なあ、もうみんな帰ろうや」と呼びながら、水が詰まったビニール袋を抱きしめ、これが破れ、白濁した水がこぼれ出るという少し切ないシーンがあったが、このこぼれ出る水が海に見えるのなら、これが海なのである。だから、9・11とこれ以降の圧倒的な事実という所定の枠組みの中で、「芝居」すらもが「芝居」の中で、役者にあれを見よと言わしめ、指差す方を見るならば、明らかにWTCを模したものがあると、「芝居」の意図を批判するつもりはないが、砂を噛むような気持ちが、気鬱というか憂鬱がさらに深まるのであった。「芝居」すらもが、リアルなことをリアルに再現するのであれば...と。
 こうした時期、2002年5月末に台湾を訪問する機会を得た。自分にとっては三度目の台湾訪問である。今回の台湾訪問の第一の目的は、ここ数年来野戦の月と親交のある差事劇団による「芝居」を観ることにあった。数年前、差事劇団のメンバーは、軽量の三角形の木枠を組み合わせて、比較的容易に立ち上げることのできる、遠藤弘貴設計の円形ドーム型テントと、そこで演じられる「芝居」に台北で出くわしている。「芝居」の要である言葉も違えば、背景となる文化も違えば、所作も違う、さらに拠って立つ根拠にもやはり違いが認められる日本側のスタッフと台湾側のスタッフとの落差の多い、数年間にわたる交流を経て、今回の芝居では、差事劇団のメンバーが円形ドーム型テントを含めてすべてを独力で作り上げていた。この点には感銘を受けた。がそれよりもむしろ、時節柄現実にあまりに規定されることの多い言説や表現にげんなりしていた自分には、台北の華山藝文特区というところでおこなわれた差事劇団の『霧中迷宮(Labyrinth in the Mist)』という芝居の内容が意外にも新鮮であった。意外にもというのは、「芝居」のタイトルからして、また、幻とか記憶とかの曖昧な話になるのだろうなと思っていたからである。そして、果たしてその通りではあったのだが。
 台湾で観る芝居とは奇妙なものだ。観客はそのほとんどが台湾人であるからして、中国語で上演され、日本語の字幕などもちろん出てこない。上演に先立って、日本人と台湾人との唯一のコミュニケーションの手段である英語(!)でそのあらましを聞いているだけである。中国語の素養の無い自分からしてみると、「芝居」上演中の言葉はさっぱり分からない。情けない限りである。日本語にまみれた日本の中にいて、たとえば、「芝居と舞踏との違いは、芝居に言葉があるからだ」と、うそぶいてみたところで、その肝心要の言葉が分からない。にもかかわらず、「芝居」を観ている間は、役者の所作のみならず、そのさっぱり分からない言葉に最大限の注意を差し向けながら、文字通り目を皿のようにして見続ける。すると、その理由はよくは分からないが、微細なニュアンスがそれなりに伝わってきて、その微細なニュアンスが積み重なると、それなりに全体的に把握しているようである。それが証拠に、芝居がはけた後で、台湾人の役者やスタッフと毎度あれこれ英語で熱心に論じ合っている事実からして、「芝居」を媒介にしてコミュニケーションが図られているようだ。
 差事劇団が『霧中迷宮』という芝居をおこなった華山藝文特区というのは、台湾国鉄の台北駅の近くにあるから、台北市の中心街のただ中にあるのだが、円形ドーム型テントが設営されている場所は、かつての酒造所裏の周囲に雑草が生茂っている打ち捨てられた場所だ。テント前にあるこのような打ち捨てられたような場所で、松明を手にした役者による演技がひとしきりおこなわれた後で、楽隊に誘われながら観客がテントの中に入ってゆき、こうして「芝居」の時間が走り始めた。ところがその「芝居」というのが、不眠の男の脳裏に焼きついたままの妄想とも現実ともつかない話なのだ。結果として現実を裏付けることになる表現に食傷していた自分にとっては、ひざをかくんとやられた気がした。
 「芝居」が取り扱っているテーマは、以前戒厳令下にあった、かつての「反共国家」台湾にあって、劇作台本の内容ゆえに当時の国民党政権によって処刑された劇作家の話のようである。戒厳令下と言いながら、ひとびとの送る日常生活は何ひとつ変わることはなかったと言う。通りを行き交う人々の雑踏と、立ち並ぶ色鮮やかな看板と、好香を漂わせる屋台などまったくの普段通りであった。ただ表面では見えない何かの位相がずれている。ただ所定の「表現行為」が許されていない「だけ」なのであった。処刑されたこの劇作家は、『霧中迷宮』の作と演出を手がけている差事劇団の鍾喬(チョンチアオ)が直接知っていた人のようであり、鍾喬の話から察するに、鍾喬自身が非常に敬意を抱いていたようである。劇作家のマニュスクリプトはちりじりになり、かつてあったかもしれない「芝居」など、当然実現される術もない。その「芝居」についての「芝居」なわけだから、虚構の虚構というわけだ。
 記憶。そして、インソムニア、不眠。眠れない夜。眠ることのできない夜。夜になると脂汗とともにマニュスクリプトが、その文字がじりじりと蘇る。たとえば、女優の雅紅(ヤホン)。雅紅が、上手にある自分が幽閉されている搭(幽閉されているというのは現実か)の窓から、突然、捕らわれの格子を取り外し、外を覗き見る。顔には、ラフカディオ・ハーンの耳なし芳一の顔のように、呪文のごとくに文字がびっしりと書き込まれている。その雅紅が、搭の外に転がり出てくる(転がり出てくるというのも現実か))。
 たとえば、女優の李薇(リーウェイ)。舞台の中央奥から、作り物の大きな外洋船が、プールに張った水の上をやってくる。船首には、李薇がすっくと立っている。その姿は、明らかに、メキシコのシュールレアリストの女流画家フリーダ・カーロの、フリーダ・カーロ自身による自画像を模したものになっている。言葉が分からないため推測する以外に方法がないのだが、彼女は、恐らく、かつて書かれていたはずの、演じられることのなかった作劇上の登場人物なのだろう。でも彼女は、「幻」の中にいるはずなのに、実在する人物のように「外」からやってくるフリーダ・カーロだ、自らの傷だらけの身体を開示して憚らず、それでも正面を直視するフリーダ・カーロだ。この、現実のものか、夢のものか判然としない領域のフリーダ・カーロが、観客である私たちにスペイン語で、こう呼びかける:「コンパニェーロ!(仲間たちよ!)」と。
 この「芝居」のエンディングでは、この「幻」の劇場は、炎に包まれて灰燼に帰してしまうことになる。舞台に設営されていたすべての大道具が撤去され、テントの外にある、背景となる荒涼とした草叢のあちこちに炎が立っていることが、このことを物語っている。これは、幻だったものが、やはり何もない現実に戻るのに、この種の仮設構造物による「芝居」が使う常套手段と言えば、常套手段と言えよう。差事劇団を主宰している鍾喬は、劇作家という以前に、台湾では既に名をなしている詩人である。言葉のできるこうした人に時に見られることだが、言葉が持つ規定性ゆえに、実際の舞台が削がれることがある。こうした人が演劇の世界に参入するときに、時に「弱さ」として映ることもある、ある種の「優柔不断さ」が、今回の作劇が持つ、現実と幻とが交わる淡い領域の中で上手く機能したのではないか。このような淡い領域の中で、今回、「芝居」ならではの身体表現が持つ、そこに折りたたまれてあるポテンシャルが展開され開示されるのではないだろうか。言葉の分からない世界に一観客として暗い客席の中に佇み、ただただ言葉に耳を傾け、役者の身体を注視しながら、このような感想が持たれた。
 台湾の訪問は、このように、たいていは「芝居」を堪能することに時間が費やされる。が、今回は、野戦の月の桜井大造が是非見せたいレリーフがあるというので、台北から南の山中に自動車で一時間くらい走ったところにある、平渓線というローカル線の終着駅である菁桐(チントン)という所にまで足を伸ばした。台湾はどこも山が深い。台北の南に位置する菁桐もその例外でなく、蘇鉄のような植物が自生する亜熱帯の山深い谷間にちょろちょろした川が流れているところである。北部台湾は、日本が台湾を統治する以前から、その炭鉱によって知られており、当時既に列強の垂涎の的であった。明治41年に開通した台湾の南北縦貫鉄道が、台湾における急速な近代化と、日本による植民地経営の成功(成功とは、日本による植民地経営が赤字から黒字に転じたということ)に大きく貢献したことは、周知のことであるが、南北縦貫鉄道に続いて、北部炭田開発のために敷設され、大正10年に開通したのが、平渓線である。一見したところ何もないように見える菁桐から石炭が出たらしく、日本統治時代には、三井資本が炭鉱を経営し、台湾北端にある基隆港から日本に向けて石炭を積み出すのに、このように山深いところにまで線路を引張ったようである。だから、駅の線路の脇には、石炭を直接積み込むことができるようになっていた往時のホッパーが今でもそのまま残っている。
 かつて、ゴム栽培で当てて、南米の熱帯のアマゾン川流域のただ中に大都市が忽然と姿を現したというような大規模なスケールではない。規模はそれなりに、ちんけではあるのだが、「忽然と」という感じが当てはまる。また、この「ちんけな」という感じがなんとも「忽然と」という感じにマッチしているのである。川は、鉄道が敷設されているレベルよりもかなり深いところを流れているのだが、鉄道のある側の川岸には天皇寮と呼ばれていた、会社の幹部が宿泊していた宿舎。橋でつながれている、鉄道のある側から見て川向うには、背の低い平屋の炭住が並んでいる。日本にあった炭住のように、木造ではなく、植民地風の煉瓦造りとなっている。そして、駅の裏山が炭鉱の跡になっている。コンクリートで塞がれた斜坑の入口、選炭場、倉庫などからなっている。そのどれもが、長い年月にわたる風雨のせいであろう、鉄の部分が錆びて、木の部分が朽ちて、石の部分のみが残っている。中でも、屋根がすっぽりと無くなり、四周が比較的大きな壁でおおわれている、倉庫であったと思われるところの中は、桜井大造が「レリーフ」と紹介しただけあって、芸術作品のような素敵なたたずまいを示していた。廃墟となって残っている壁のところどころに、壁に密着して生長しながら、その壁をさらに超えて、亜熱帯の背の高い樹木がすっと伸びているのだが、これらの樹木から、まるで茎のような無数の堅い根が壁の上を一直線にどこまでも放射状に伸びていて、根と根とが重なり合うところは溶け合ってひとつとなり、それらが、廃墟となった壁面全体で見事な抽象的な絵柄を繰り広げている。その様は、ジャクソン・ポロック顔負けの、自然と廃墟とが、有機物と無機物とが織りなす一大アクションペインティングであった。
 帰路、炭住を川をはさんで望める台湾の屋台で、昼食を取る道路工夫や地元の子供らに混じって、かき氷を食べた。頭上には燦々と照りつける初夏の太陽。周りには亜熱帯の植生でいっぱいの緑の山々。そして、かつて忽然と生まれた集落。その時、川下から川上に向けて南の国の風が巻き上げるようにして吹いていた。
 *  *  *
 −風。ふいに在日の詩人金時鐘の詩句が思い起こされた。
 「風は はてしない喪の祭司である。
 季節を喚び起こす風が風のなかを巻くので
 吹かれているのがいつの季節かを 人は知らない。」
 この詩句を含む「風」と題されている詩から始まるのは、金時鐘の詩集『光州詩片』である。表題が示唆しているように、この詩集が一義的に取り扱っているのは、1980年5月に発生したいわゆる「光州事態」である。「光州事態」というのは、前年の1979年10月に「維新体制」を維持し続けてきた朴正煕大統領が彼の腹心に射殺されて以降、流動化を続ける韓国にあって、全羅南道の都市光州が市民と学生によって解放されるという状況に対して、戒厳軍が光州市を制圧、その際に多数の市民や学生が殺害された事態のことであった。戦後東アジアの体制の基本的な枠組みを覆しかねないこの事態に、当然のことながら、海峡を隔てて日本で暮らす韓国・朝鮮人のコミュニティーは騒然となった。白竜や洪栄雄といった在日のミュージシャンたちが、学園や公民館やホールを巡っていたことが、個人的には今でも記憶に残っている。金時鐘の『光州詩片』が出版されたのは、「光州事態」が発生してから3年が経過した1983年のことであった。この詩集の中でも比較的よく知られている詩「褪せる時のなか」は、次のような書き出しで始まっている。
 「そこにはいつも私がいないのである。
 おっても差しつかえないほどに
 ぐるりは私をくるんで平静である。
 ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
 私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。」
 詩集『光州詩片』が出版された当時、たとえば、こういう詩句を読むと、「光州事態」と、これを日本で見守るしかない在日朝鮮人の私という簡略化された構図で捉えていたようである。ところが、2001年に出版された金石範と金時鐘との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社)の中で、金時鐘が20歳になるかならないかの頃に済州島で「山部隊」の側のレポを務めていたこと、そこでさまざまな文字通り惨劇を多数目撃してきたこと、彼の父母が彼だけは助かるように日本に密航するよう送り出したこと、その父母が済州島で間もなく亡くなったこと、これらのことを金時鐘が長い間沈黙してきたことなどが、とつとつと語られている。「四・三事件」とは、ここで十分に論じることはできないが、第二次世界大戦後間もない1948年の4月3日に、当時米軍政が進めていた南朝鮮単独選挙に反対して、済州島で、武装した約500名が、島内の警察署や右翼要人宅を襲撃した事件であった。これ自体を取り出してみれば、小規模な反乱であったが、これを契機にしてその後、正確な数字は把握されていないものの、数万人の島民が島内で殺されたと言われている。先ほどから述べている「光州事態」が、戦後東アジアの体制の基本的な枠組みを揺るがしかねない事態であったとするならば、「四・三事件」は、この枠組みが出来上がるまさに出発点に位置付けることのできる事件である。金時鐘にとっての「時間」は、既にこの時点から走り始めている。別の言い方をするならば、金時鐘が『光州詩片』の詩作の中で語っている「風」は、既にこの時点から吹きつのっているのであった。
 「遠く地平をふるわせて
 非業の時をなぞっているのも
 その風である。」
 つまりは、風は、またもうひとつの風を巻き起こす風なのであった。「光州事態」を目前にして、というか、「光州事態」に仮託させてようやく自分じしんを見つめなおすことで、初めて、金時鐘にとっての「四・三事件」が把握され、東アジアの戦後の歴史を表現の高みにまで高めることができたのだと言えよう。いや逆に、金時鐘の表現の高みが無ければ、戦後の東アジアの基本的な枠組みが見えてこなかったと言えるかもしれない。詩作に際しては、具体的には「芝居」とは方法が異なるものの、ものごとを眼前にありありと把握できるようにするためには、やはり「芝居」と同様に、抽象度の高さというものが要求されるものなのであろう。
 その金時鐘が好んで使う言葉に「唖蝉」という言葉がある。金時鐘の代表作とも言える『長編詩集 新潟』の中でも使われているこの「唖蝉」という言葉は、もの言わぬ蝉という意味であろうが、金時鐘の若い頃の詩作「遠い日」の中で、金時鐘にとってこの言葉が何を意味しているのかについて分かりやすく示唆されている。

 「遠い日

 いつの日のことだつたか。
 私が蝉の命のみじかさにおどろいたのは。
 ひと夏のつもりでいたのが 三日生命と知らされて
 木の根つこの蝉のぬけがらを 葬つて歩いたことがある。
 遠い以前の その前の日のことだ。

 それから どれくらい時日が経つたろう。
 暑いさかりに 蝉が声を張り上げて鳴いている様を
 私は 心して 聞くようになつていた。
 限られたこの世に 声すらたてないものの居ることが
 気がかりでならなかった。

 私は まだ 二六年を生きぬいたばかりだ。
 その私が 唖蝉のいかりを知るまでに
 百年もかかつたような気がする。
 これからさき 何年が経てば
 私はこの気もちを みなに知らせることができるだろう。」

 −「蟻にたかられて 唖蝉がおり」、短い夏をすら声をたてることなく地面に転がって死んでいる蝉と、これにたかる蟻、目蓋を閉じると、金時鐘のこの言葉が、平渓線の終着駅菁桐で見た炭鉱跡の廃墟と、そこに巻き上げるようにして吹きつのる南国の風と、ぴったりと重なり合う。
 *  *  *
 リアルなことをリアルに再現することが圧倒的な事実を裏付けることになりはしないかという懸念を開題に文章を始めてみて、「芝居」の中を走る「芝居」固有な時間、国境を超えた、言葉の通じない台北で観た差事劇団の「芝居」『霧中迷宮』、台湾平渓線終着駅菁桐にある炭鉱跡とそこを吹く逆巻く風、金時鐘の沈黙と書いてきたが、これらの中には、想像力の欠如したリアリズムに対置することのできる、「芝居」が現実と接地しながらも固有に持つフィクションへの萌芽を認めることができると考えている。
 「破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。ほかのひとびとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔物を片づけねばならぬ、ということにもなる。といっても、粗暴な力を振るうとは限らず、ときには洗練された力を用いる。また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。」
 これは、引用されることの多いヴァルター・ベンヤミン(野村修訳)の小品『破壊的性格』からのものであるが、「芝居者」であるならば、ベンヤミンの言う破壊的性格の一端を抱きながら、「芝居」固有な方法でもって、錐揉状に降下しながら、あるいは、転げ回りながら、繰り返し繰り返し現実への接地を試みるであろうし、そうするに違いない−と思っている。

 (文中の引用は、金時鐘『集成詩集 原野の詩』1991年 立風書房;ヴァルター・ベンヤミン著・野村修編訳『暴力批判論 他十編』1994年 岩波書店からのものである。なお文中の敬称は省略してあります。)

                                  (寄せ場学会会員)

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“花に嵐のたとえもあるさ”                     池内文平

 あまりにもばかばかしく、脱力を強いるような言説が横行していて、このところ(あきれて)モノも言えない状態だったが、ここはなんとか踏んばって戦闘的なこころもちを回復させ、気分よく「秋の芸術シーズン」をむかえたいと思う。
 まずは、2001年9月11日のWTCビル爆破に関してである。
 これにはぼくも少しは反応して、その年の12月の芝居(独火星『九龍の蛆虫ども』第一部「火の記憶」)では、それまでの構想を大幅に改変して「真正面」からとりくんだ、つもりだ。これには、観る側からいささか過剰とも思える反応がかえってきた。
 「文字で書けることを芝居にすることへの懐疑」という、ちょっとわからないものから、久々に政治とシバイの関係についての論議、もちろん、このテロ行為そのものに対する賛否(賛、は少なかったけど)まで、花ざかりともいえる活況であった。
 むろんぼくは、サイードのいうプロパガンダの問題はさておくとして、テロそのものは権力を持たない被抑圧者が権力(者)に対して思いもよらない仕方で反抗を試る行為だと思っているので、すべてのテロには納得できる根拠があるという立場である。だからぼくは、テロ=悪という現今のイデオロギー操作を目のあたりにするとき、なんとか「テロ」という「ことば」を「悪の道」から救い出したいという求道的精神さえ思わずにはいられないのだ。従ってビン・ブッシュ(ブッシュの息子)が「帝国主義につくのか、それともテロの側につくのか」と厚かましくもひとに態度の表明を迫るとき(ショー・ザ・フラッグ)、「どちらも悪い」とは思わずに、ついテロの味方をしたくなってしまうのである。
 そんなぼくの気持ちは、確かに前回の芝居には隠しようもなく出ていたと思う。――全世界がおまえを否定しても、いや全世界がおまえを否定するのだから、私だけは、少なくとも私のココロに忠実な私だけは、君から目を離さず諾(ウイ)といおう。(――といいたいところだが、今回に限ってはそうは言いきれなかった。その理由はあとで述べる。)
 この芝居にはたしかにそう感じさせる部分があって、それに敏感に反応してか、あるいはやはり時節柄か(すでに合州国軍らによるアフガン攻撃は始まっていた)、とにもかくにも論議は久しぶりに芝居と世界のあいだを往還していた、ように聞こえたし、ぼくもあいかわらず酔っぱらって論争的に話してはいたのだ。
 ところが、まぁそういう、ぼくにしてみれば緊張もし幸福でもあった時間があったにしても、芝居の眼目というか真面目はそのことだけにとどまるものでもない。そんなにスッキリしたものでもなく、もう少し悪意を含んだコントンとした何者かである筈だ。これは「芝居はプロパガンダではない」ということではなくて、プロパガンダにもなりうるけれども、それにとどまらそうという力はいとも簡単に解体されてしまうという芝居の性格に関する問題である。それは集団の関係性から説けば解けると思うけど、いまはやめとこ。めんどくさいから。
 それで、前回の芝居にもどるけど、ぼくはそこで熱意をこめて9月11日の「テロ行為」に賛意を示そうとしたわけでも、ましてこの世界を解釈しようとしたのでもない。あえていえば、この現在にあってもなお犯罪や恋愛の心理をシバイに仕立て、それを成立させる情熱があるのだから、それと同等の情熱をもって政治の、いや世界の心理(!)をシバイに仕立てようとしたにすぎない。これは当初から変わらない「独火星」の一貫したスタイルでありスタンスである。
 それはだから、世界を解釈するのではなくて、逆に世界のほうから解釈され、標本箱の中にピンで留められた者の、からだに突き刺さった針のその穴から覗いた世界の姿なのである。なぜなら、世界は、この紙の上にのっている空虚なコトバを写した文字などではなく、こういってしまえば身もフタもないが、やはり核爆弾をいくつも身にまとったキメラのような実体だからである。そしてそのキメラの実相をみようとするなら、やはりキメラ(世界)自身が自分とはあいいれないと判断し、あるいは不要と断定したモノを自らの身からひき剥がそうとした瞬間を記憶にとどめ、わずかにあいた空隙から仰ぎ見るしかないからだ。
 とはいっても、ぼくはべつにブレヒト主義者ではないから、芝居で今日の世界を再現しようと目論んでいるわけではない。ブレヒト自身がどう考えていたかは知らないけれど、どっちに転んでも、シバイはウソ半分・ホント半分なのだから、ぼくらとしては、もし世界が百のウソをついているのならその倍のウソをついて二百ぶんのホントらしさなんてウソに決まってるとホントのことをいい、もし五十しかホントのことを言ってないなら、五十ぶんのウソのまえの五十のホントなんてその半分にもウソが混じっていると、ウソつきの顔をしてまたしてもホントのことをいって、その二十五のホントのむこうがわのウソを手前に引きずり出してやるばかりなのだ。むろんこのウソとホントの関係は弁証法的なそれであることはいうまでもないことだが。――あれ? これって、ウソ? ホント?
 というわけで、もしこれがホントならば、ぼくはブレヒティアンではないかわりにダイアレクティシャン(弁証法主義者)になってしまうわけだが、いずれにしても、世界とぼくらの間柄は入れ子のようなもので、いまいったキメラのたとえはそのことを前提にしたことなのだ。だからたとえばぼくらが〈もうひとつの世界〉といったり〈われわれの時間〉とかいってるのも、当然そのことを踏まえたうえでのことで、対立的ではあるが、まるごとひとつの〈世界〉には違いないのだ。そうでなければ世界はどこからも変容しないし、もし本気で別の、どこか複数宇宙からか、あるいは超歴史的な「まつろわぬ民」みたいなものに、(ホントにもし本気で)仮託してこの邪悪な世界を――いまはできないけれども、いつか――打倒してやろうなどと考えるなら、それは無邪気な夢であるまえに、権力者たちがいつもいだき、ひとびとを煽動するために使ってきたあのイデオロギー・「エイリアン思想」のちょうど裏がえしであり、それと何らかわりがなくなってしまう、ということになる。
 くり返すが、世界は可変であり、それを変えるのは、いまあるわれわれではない〈われわれ〉であり、それは、いまあるわれわれが変容した〈われわれ〉以外ではないのだ。だいいち、そうでなけりゃ、せっかく帝国主義本国に育ったカイがないではないか。
 と、まあ、以上はあたりまえのことだが、もういちど9月11日にもどってみよう。
 ぼくは、あの高熱で融かされたビルの躯体の金属や窓ガラスがいっしょくたになって崩れ落ち、飛び散った破片のひとつを「希望と絶望のアマルガム」と芝居のなかで呼んだのだけど(素材がちがうので“アマルガム”とはいわないと言うなかれ。“合金”のメタファーなんだ)、もちろんそのアマルガムは2001年9月11日になってはじめてぼくらの目の前にあらわれたのではない。束の間の希望の先にある絶望、そして絶望の深さを知ったうえでの希望は、いまここにある世界に通じるすべての時系列のなかに埋もれてあったのだし、カウントされない死者の数と、その死者だけに通じるコトバをもつ者の数だけは、少なくともあったのだ。
 だからといって、ぼくは、9月11日は特別な日ではない、といってるわけではない。それは特別な日であったのだ。世界がその凍ったまなざしで一瞥し、記憶の端にも残していない膨大な時と場所と人間が、ある日、特別な日をむかえたように、それは特別な日なのである。
 それだからぼくは、それを「セプテンバー・イレブン」とアメ国メディアのすり切れた用語を横ながしして恥じることなく言ってみたり、あろうことかその地点を「グランド・ゼロ」といって深刻さをすり替えてしまう態度は、フザケテルとしか思えないのだ。ではぼくたちはUSA(ユナイテッド・ステイツ・オブ・アグレッションと読むらしい、さいきんは)のアフガン爆撃の日を「オクトーバー・セブン」と言うのか? ワシントンDCの街角に血文字で「10・7」とかきなぐられているなら、はなしは別だが。
 あるいは、広島は「プラス・ゼロ」で、ニューヨークは「マイナス・ゼロ」とでもいうのだろうか?――こうして空虚なコトバは書かれた文字から脱色されてゆく。抽象化して歌うように記憶されるのではなく、ひとの、人間の、私たちの血の色を消し去るようにして。
 と同時に、「同時多発テロ」という、ちょっと真剣に検討されなきゃならない用語も、まるで9月11日を修飾するためだけに用いられていて気味がわるい。それはたしかに同時・多発・テロではあったのだ。9月9日に「北部同盟」司令官・マスードが暗殺されていたのだから。ぼくは、マスードのことを長倉洋海さんらの著作で知っているだけだけど(中村哲さんにはあまり評判がよくないみたい)、ひそやかに肩入れをしていたのだ。それがアルカイーダによって(!)殺された。こうして戦略的に策定された今回の「同時多発テロ」は、9月11日以降のアフガニスタンのゆくすえを決定的に変えてしまった。マスードのそれまでの言動を考えれば、マスードがもし生きていればUSA軍らによるアフガン空爆には少なくとも反対していただろうと思うからだ。――これがテロにはあまり文句をつける筋合いのないぼくが、今回だけは、あらゆる非難を被っても諾とする決意をにぶらせる、ひとつの理由である。
 紙数も時間(シメキリがある)も尽きた。シリキレで申しわけないが、この続きは、いつかどこかで。
 ココロは晴れない。少しは戦闘的になったが、楽しい「秋の芸術シーズン」は迎えられそうも、ない。

                                     (独火星)

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