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| マダンの光 2005 | マダンの光 2007 | ||||||
| 光州で 桜井大造 22年振りに光州の町に降り立ったのは2年前の真夏、8月15日の深夜であった。大邱(テグー)から光州まで4時間。大邱のロッテデパートの屋上で「解放記念日」を記念して行われていたマダン劇を見物した後、当の劇団「神明(シンミョン)」の光州への帰途、そのワゴン車に随行させてもらったからだ。「シンミョン」とは初対面である。韓国の知人の紹介である以外、互いに何の情報も持ち合わせてはいなかった。遠慮する当方を押し包むようにしてワゴン車に乗せ、あとはほとんど無言のままの移動であった。 22年前、1982年3月、高速バスで光州に降り立ったのも深夜であった。薄暗い外灯の中、道のあちこちに人影が見える。近づけば、それは私服の警察官、あるいは軍人であることがすぐにわかった。光州は完璧に影に監視されていた。影には沢山の目玉があり、町に残された微かな光をも吸い込んでいるのでこんなに暗いのか、と強がった。張りつめた視線に覆われる町を旅館を探して歩くうち、いつの間にか4つの影が後ろにあった。恐怖を感じた。無言の影に押し込まれるようにして旅館に駆け入った。 「シンミョン」に紹介されたラブホテルに泊まり、翌朝「シンミョン」の朴さんが大学の日本文学の先生である柳さんを連れてやってきた。望月洞(マンウォルトン)を案内してくれるというのである。光州抗争の死者たちをその家族たちが葬った墓地である。22年前にはとても叶わない場所だった。 望月洞にはその後の民主化闘争で亡くなった多くの人々の墓もあった。生きて逢うことができなかった詩人金南柱氏の土饅頭は墓地の左端の方にあった。そこに飾られていた写真に向けて、22年間遅延していた許可を請うた。許可?ーー22年前、光州から帰国しすぐに旗揚げした風の旅団の「東京マルツゥギ」で氏の詩を無許可で使っていたからだ。いや、その後の公演でも幾度も使わせてもらったのだ。あ、いや、しかし、91年には池内文平が、出獄し少しの間娑婆に住んだ氏に会っている。きっとその時に非礼は詫びたはずだ。いや、もっと前、80年代後半、獄中にいた氏に面会した「農夫の夜」の翻訳者平野さんが私らの代わりにーー氏の土饅頭の前で、22年という月日は伸びたり縮んだりしたが、不思議と込み上げてくるものはなかった。むしろ、この2ヶ月後、山形の最上町という場所で野外劇をやったおり、氏の「灰溜まり」を語っている途中、激しく込み上げてくるものがあった。科白が切れ切れとなり、顔がくしゃくしゃとなり、腹筋が痛んだ。土の中に埋まっていたせいでもあろうか。これもまた2ヶ月の遅延である。 望月洞のそばに5・18墓地がある。97年、広大な土地にモニュメント、資料館、遺影奉安所などを配した荘厳な墓地である。光州市のリーフレットによれば、この墓地は「民主化の聖地」であり、光州抗争は「不滅の金字塔」としてここに記録され「生きた歴史の教材」となった。つまり「韓国国民のヒストリー」となったのだ。しかしーー もとより、このことに不足をいうのではない。光州抗争が韓国内で確かな位置を得たのは、わずかに10年足らず前なのだ。「暴徒」とされてきた民衆が、正しい位置を与えられ「名誉回復」されたことに何の異議があろう。だから、私が感じた違和感というのは、些少なことかもしれない。たとえば「歴史の教材」になるということは、死者の生前を現在的な正当性という尺度で測るということでもあり、生きている私らのために活用することになりはしないか。死者を対象として固定するということであり、「知る値打ちがある死者」という価値基準がそこには働いていないか。この価値基準は「民主化された韓国」なのだろうか。あるいは「理想とされる人類社会」なのだろうか。いずれにせよ、おそらく家族たちがそうであるように「死者のすぐそばで生きる」ということとはかなりの誤差があるように感じるのだ。 これは「歴史」ということを巡る問題であるので、ここでたやすい結論を述べるべきではない。だが、少なくとも<表現>というものと関わっている私らにはかなり根幹となる事柄ではないか。私の違和感はそこから出ている。光州にわずか数日滞在するだけで、輻輳するいくつもの遅延を抱え込み、伸縮する22年に惑わされるのだから。 「シンミョン」ともう一つの光州の劇団「トバギ」が中心となって、翌年(05年)5月に「光州抗争25周年記念祭」が計画されていた。それに参加しないかとの誘いをもらったのは、その夜のことだ。もう四半世紀が経つのだ。「シンミョン」も「トバギ」も光州抗争当時からの集団の流れであり、激しい民衆の抵抗を主軸にした表現をこの現在に引き継いだ人たちだ。 大邱のデパート屋上で見た「シンミョン」の舞台の力強さがその事をよく伝えている。前半は、爆笑につぐ爆笑である。身を投げ打つような所作が言葉の理解できない私をも爆笑に誘わずにおかない。だが、やがて凝縮した記憶の時間がやってくる。地面にめり込むような葬送のシーンだ。だが、それは死者の冥福を祈るといった姿ではない。時間を凍結させようするかのような哀しみではあるのだが。そして、四物が打ち鳴らされ、演者の身体は激しくうねりだす。凝縮した記憶に抗おうとするように、場が弾け出す。生と死が行き交う場、死者と共にある祝祭の時間が訪れる。散逸していた様々な時間が身もだえするような演者の力によってたぐり寄せられ、中央で重力を増していた記憶は一気に解き放たれる。そして重要なのは、それを囲む観客席があることだ。まなじりを決してそのような祝祭を分有する観客がいるということだ。冷笑の座る席は用意されていない。 「25周年」の参加要請にはもちろんすぐに応えられなかった。スケジュールの問題ではない。そのような祝祭の場に私(ら)が立てるものかどうか、自らを振り返る必要があったからだ。翌年5月までの間に私(ら)は幾度となく光州におもむくことになる。そして「マダンの光’05」を結成し、往復を繰り返すことで、光州を自分の居場所として選び出していくことになった。詳細は省くが、結果的には、実行委の招請によってではなく、光州の町と直接繋がるという意味も込めて「自主的参加」という形態をとることにした。実行委も納得してくれた。こうして私らは、5月の光州に立った。 5・18自由公園を会場に「光州マダン」は行われた。北京、上海、香港、台湾、そして韓国の各地からマダン劇グループが参加した。運営から裏方までを兼務した「シンミョン」と「トバギ」の公演は素晴らしいものだった。多忙を極める中を、ほとんど寝ずに深夜に稽古をしたようだった。「シンミョン」は光州抗争をテーマにした「立ち上がる人々」。「トバギ」は会場を道庁前に設定し、市民軍が最後の決戦として立て籠もった5月27日の深夜にタルチュム(仮面劇)を行った。双方とも光州を生きる表現者の矜持と責任を十二分に発揮した舞台だった。彼らの舞台によって、光州抗争は新たな姿となってこの今に記憶されたといっていいだろう。 07年7−8月、「シンミョン」と共同してこのクニの各地にマダンを開くことになった。ベースとなるのは光州抗争をマダン劇とした「立ち上がる人々」である。このクニの各マダンにどのような記憶が新たに生まれるかを期しつつ、全力をあげて準備したい。 2006・12月 |
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